可睡斎の第11代住職仙隣等膳は小僧時代に臨済寺で、今川義元の人質となっていた松平竹千代の教育を受け持ったことがあった。後に浜松城主となった家康はその時の恩を忘れず、旧交を温めるために等膳和尚を城に招いた。ところが道中の疲れもあり、当時を懐かしむ話をしている最中に、和尚は居眠りを始めてしまった。その様子を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。また、境内には三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍から逃れた家康が隠れたとされる洞窟が出世六の字穴として今も残されている。
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